大沢農園ヒストーリー
さくらんぼ狩りフルーツ狩り大沢農園 大澤良加
大沢農園は代々続く農家ではありません。
私の祖父は次男で、第二次大戦前に満洲へ渡りましたが、敗戦によりシベリアへ抑留されました。抑留中の辛い体験は、私が子供の頃、よく祖父と一緒に寝た布団の中で聞かされました。厳しい気候、貧しい食生活、病気になり死んでゆく仲間達の話でした。帰国した祖父は本家から土地を分けてもらい、農業を始めました。地域でも一番小さな農家の部類でした。
父は色々な作物を栽培しました。ぶどう、もも、ぶどうの加温栽培、花、キウイ、野菜など小さい農家なりに考えて新しい作物にチャレンジしてゆくうちに、さくらんぼに出会いました。さくらんぼは母の実家で栽培しておりました。「私がお嫁に来たからうちでもさくらんぼができただよ」、と母は自慢げに言っておりました。その頃さくらんぼは大変珍しく高価でしたが、近所でさくらんぼをつくっている農家はまだ誰もいませんでした。父は県内のさくらんぼの先進地域へ積極的に顔を出し、栽培技術を勉強しました。多くの先輩さくらんぼ農家さん達が惜しげもなくその技術を教えてくれたと父は言っておりました。そのおかげでさくらんぼ栽培も軌道に乗ることができました。
畑の側に道が通るようになり観光農園を始めました。さくらんぼ狩りを始めました。最初は「いらっしゃいませ」も「ありがとうございました」も言えません。商売なんかしたこともありません。母は道沿いの売店に座っているだけで何だか恥ずかしくなってしまい、半日で帰ってしまったこともあったそうです。
それでもお客様がぽつぽつ寄るようになりました。
自分のつくったものを、目の前でお客様に食べてもらう、美味しいといってもらう、また来てもらう、毎年来てもらっていつの間にか親せきのようなお付き合いになる。観光農園を始めてから、父母の農作業をする時の厳しい顔がお客様を迎える笑顔に変わってゆきました。
そんな父母も急な病に倒れ、春、さくらんぼの花が散る頃に母が亡くなり、その10日後に父も亡くなりました。最後までさくらんぼのこと、大沢農園のこと、家族のことを心配しておりました。
私は農家になるつもりはありませんでした。いつも厳しい顔をして畑仕事をしている父母が嫌いでした。畑仕事を手伝わされるのが嫌いでした。東京の大学を出て都会でサラリーマンになりました。たまに帰省すると、父母が楽しそうにさくらんぼ狩りのことを話していました。お客様のこと、アルバイトで働いてくれた人のこと、畑のこと、ホームページをつくってみたり、チラシをつくってみたりしたこと。何だか変わったな、と感じました。
父母が病気になって、すぐに農家になると決心したわけではありませんでした。会社を辞め、色々な方にご迷惑をおかけしました。農業について全く知識はありません。桃の樹とさくらんぼの樹の区別もつきませんでした。悩みながら迷いながら農家になり、毎日畑に出ました。父のつけていた作業日記を何年分も読み返しました。市販されているさくらんぼの栽培教科書も読みました。父もお世話になったさくらんぼ農家さん達に話を聞きに行き、さくらんぼ栽培の会にも入会し勉強しました。仕事をするうち、勉強するうち、また周りの人たちに助けてもらううちに、さくらんぼ栽培の楽しさ、農業の奥深さ、田舎の生活のあたたかさに気づきました。さくらんぼ狩りでは、自分のつくったさくらんぼを通して直接お客様とつながる楽しさを知りました。そして、父と母がいかに苦労してきたかを知りました。
畑に出るたび、さくらんぼ狩りのお客様と話すたびに、亡き父母が感じたであろう気持ちを私も感じることができます。そこにはうれしいことも辛いこともありますが、父母と同じ気持ちを知ることのできる農業という仕事は、私にとって、とてもしあわせな仕事だと思います。このしあわせを、さくらんぼを通じて多くの人に伝えてゆき、次の世代へ繋げてゆくことが、私の仕事だと思い、今日も畑へと通います。